【父の闘病記】全ては右肩の激痛から始まった(3)

【父の闘病記】全ては右肩の激痛から始まった(3)

2017-12-05

前回までの状況は「【父の闘病記】全ては右肩の激痛から始まった(2)」をご覧ください。

総合病院の救急外来で、即、処置室に案内された父の検査が始まりました。

尿検査、採血、エコー検査、CT検査…もろもろ。

検査の間、待合室で2〜3時間待ちました。

その間、仕事が終わった姉や妹夫婦が駆けつけてきてくれました。

それもそのはず、これまで病院とは全く無関係な、健康的な生活を送ってきた我が家にとって、今回の父の緊急入院は一大事でありました。

救急処置室にて:まな板の上の鯉

父はもう「まな板の鯉状態」といいますか、はい、尿道からも管が通されすっかり意気消沈しておりました。

やはり、ニンゲンというものは「排泄のコントロール」ができなくなると、人としての尊厳を奪われた気持ちになるのだと思います…。

父曰く、「触診がめっさ辛かった (´;ω;`)。イタイ検査一杯された (´;ω;`)。」と。

カワイソウに…。

先生方の診断は、といいますと…。なんとも明快な答えが帰ってこないのです。

ともかく採血のデータがやばいと…。

確かに見てみると炎症反応を示す「CRP」が異常に高い様子。

(正常値は0.1以下、関節リウマチの方でも症状が出ている時にせいぜい一桁台、一方父の値は「38」でした…。)

[speech_bubble type=”std” subtype=”L1″ icon=”doctor.png” name=”医師団”]身体の中で何らかの炎症が起こっていることは確かだが、その原因がイマイチ特定できません。[/speech_bubble]

と、こんな状況でした。父を迎えに行った時に感じたあの「腐臭」は、おそらくこのせいに違いない…。

破裂した肝嚢胞が原因なのか?

はたまた、経過観察中だった「胆石」による炎症なのか?

場所が近いだけに、特定が困難な様子でした。

結局、緊急入院となりました…。

実は救急に運ばれた際、成人病棟の病床に空きがなく、「ココから転院になる可能性がある」と言われていました。

しかし、かなり緊急性が高いと判断されたようで、結局そのまま入院となりました。

付き添いの母を残して、一旦帰宅することに…。

翌日、当時の職場の先生たちにも意見を聞くと

「へっ?ってか大丈夫なん?ってか、やばいやん!さすが昭和一桁生まれは強いよな。」と。

年齢も年齢だけに、そろそろ覚悟するべきなのか?と、イロイロ考える日々が始まりました。

病院では抗生剤投与の治療が継続的に行われていました。

父はかねてから、病院へ行くのは嫌がらないものの「手術」などの「外科的処置」に対しては非常に強い恐怖感を持っていました。

父が「手術」に対して強い恐怖感を抱き始めたのは、ワタシの叔母(父の妹)を肺ガンで亡くした事がきっかけだと思います。

父の手術恐怖症。それは叔母のトラウマから。

叔母の肺ガンの病巣はかなり奥深い場所にあったようで、「手術」は厳しいものになる、と言われていました。

手術そのものは成功したと思うのですが、術後は酸素ボンベが必須の生活になり、叔母は退院後早くに他界してしまいました…。

その経験から、父の中で「手術=痛い思いをしても、結局ひどくなるもの」という経験則が出来上がってしまったのだと思います。

一応念のため、父が手術などの「観血的(血を見る系)処置」に対して強い恐怖感を持っていることを、入院の際の申し送り表に記載しておきました。

入院したら高齢者は3日でボケる?

入院後、さまざまな検査結果を検討した結果、父についた病名は「菌血症・感染性肝嚢胞・胆嚢炎」でした。

入院直後は「絶飲食」だったのですが、2〜3日後には「飲み物」の禁止は解かれました。(とは言ってもお茶か水だけだけど…。)

ひたすら絶食と抗生剤点滴の日々を送る父は、みるみる痩せていきました。

幸い入院初期の段階で、導尿の管も外されており、父の「尊厳」もギリギリのところで保たれたようです。

最大の懸念事項は医療関係者の間では、「高齢者は入院すると3日でボケる」と言われていること。

父は入院直後から、「軽いせん妄(幻覚や錯覚、不安)」は経験した様です(熱が出ていた、というのもありますが…。)

「天井に黒い影みたいな雲が見えた」とか「なんか天井に変な模様が見える」とか思っていたようで…。(思ってても言わなかったようですけど…)

父なりに「自分かなりヤバイ!」という感覚があったのか、自分でなんとかしようと模索し始めたようでした。

が、しかし、本を読むことは好きなのに、当時は「全く気力がない」「本を開く気すら起こらない」状態だったらしく、ならどうすべきか?と、父は考えたようで…。

結果、父が自ら日課として課したのは、

  • 日付と時間の経過を意識する(意識的に腕時計を見る。実際頻繁に見てました。)
  • 尿の回数と量を手帳に記録する

以上の2点だったようです。

一方、医師団の方はというと「どうにもこうにも判断しかねる状態」、膠着状態が続いていました。

緊急入院から、1週間が経過していました。…つづく。